

デンマークのデザイナー Poul Hundevad(ポール フンネヴァッド)によるキャビネット
大型の家具であり、デザインもどちらかと言えばどっしりと構えたスタンダード/クラシックな印象に徹しているはずだが、全体のバランスの良さやディティール/素材へのこだわりによって洗練された上質な雰囲気だけが漂う。
すごいのが、今回この一台でも開き戸収納とシェルフ、ライティングデスクを備えた機能的な設計であるが、本来はさらに同様のシリーズから自由に家具を組み合わせたりバーツを追加することの出来る自由度の高いユニットキャビネットとして展開されていたであろうこと。例えば、今回下段のキャビネットは台輪を履かせたモデルであるが、この台輪を取り外してみると底板に脚をねじ込むための受け具を見つけることが出来た。おそらく当時には台輪ではなく4本脚を選択して下段キャビネットだけを脚付きのサイドボードとするような提案もされていたのであろう。またライティングデスクを開くと目の前にはチーク製の抽斗が備えてあるが、こちらも仕切り板を取り外して、抽斗ではなく広い棚に組み替えることも出来たようだ。
左様にギミックに富んだデザインを発想すること自体は難しくないのかもしれない。しかしそれをこの美しいデザインと両立させているということがやっぱりすごい。デザインの技量もそうであるがその動機となるべく「美しいデザインに対する意識水準の高さ」そして「欲望の質」を想像して、まさにデザイナー 原研哉さんの著作『デザインのデザイン』より「第5章 / 欲望のエデュケーション」を読み返さずにはいられない。
上記したタイトルでは大きく言うと「これからの未来へ向けたデザインの課題」についての論考が進められていくのだが、その一つの例として日本のクルマが話題に上がる。(以下、上記タイトルより引用、抜粋)
ーよく耳にする国産車への批判として、海外のクルマと比べて美意識が足りないとか哲学が不足しているとかいう話がある。確かに一部のヨーロッパ車には強い自己主張を感じるものがある。クルマというプロダクツに込められた生産者の意欲を感じる。日本のクルマにはそういうものはない。日本のクルマは日本人の欲求に寄り添うようにつくられているので、エゴイスティックどころかとても温厚で従順である。性能は優秀で燃費もいいし故障も少ないー
ー日本のクルマが日本人の目におとなしく見えるのは、日本人のクルマに対する欲望を精密にスキャンし、それらに完璧に寄り添う形にできているからだ。だから、いい意味でも悪い意味でも日本のクルマは日本人のクルマに対する欲望の水準そのものである。マーケティングが精密に行われる限りにおいて、製品はそのメーカーがフランチャイズとしている市場の意識の反映であり、その欲望のレベルや方向がそれらの製品を通して浮き彫りになると考えられるからだ-
デンマークのヴィンテージ家具に触れていると『デザイン黄金期』と称されて当時から世界的に評価をされたデザイナーの名前や製品が華々しく紹介される機会をよく目にする。確かにフィンユールの作品を観るとゾクゾクするし、ウェグナーの椅子の説得力は何より座れば分かる。しかしそのような名匠・名作家具たちは突然変異体のごとく突如現れたのかというと、やっぱりそれは違う。彼らもまた、その時代の思想や文化によって育くまれ、そして当時の社会や市場の欲望/意識に触れることでそれぞれがその才能を開花させていったのである。そう想うと、もっと身近で小さな暮らしの中にこそ、私たちが注目するべき大切なことや本質があるのだと改めて信じることが出来る気がしてくる。
脱線したこのままでお話しを終えるが、最後に上記タイトルより当該章の冒頭文を拝借する。私的好きな一文であること、またデンマークデザインに通じていると思うから。既に読んでいた方は多いと思いますが、古い本でも色褪せることない名著。原研哉さんの「デザインのデザイン」は読書の秋のお供にどうぞ◎
ー「着眼大局着手小局」という言葉をときどき反芻している。現在という場所から半歩先の近未来を見るのではなく、過去から現在、そして少し遠い未来を見通すような視点に立ちたい。未来が存在すると同時に莫大な文化的蓄積が過去にはあり、自分にとってはそれも未知なる資源である。ー
Condition
チーク材を使用した木部、外装は一度古 い塗装や汚れを洗浄後サンディングを施してからオイル塗装にて再仕上を施しました。棚部やライティングデスク内部は表面の汚れをクリーニングしてから浸透性ウレタン塗装にてレストアを施しています。小傷程度は残りますが雰囲気を損ねるほどのダメージは無く良いコンディションです。
棚板や格納された小抽斗は高さの調整など自由にアレンジすることが出来ます。
写真だけでは伝わらない製品の纏う空気がございます。是非実物にてご覧ください。














